創世記37:12−28/コロサイ3:12−17/ルカ15:11−32/詩編37:7−22
「そこで、彼は我に返って言った。」(ルカ15:17)
人には長所と短所があると言われます。インターネットの転職サイトなどでは、面接の際に長所と短所をどういうふうに言えば良いかなど事細かく紹介しているものもありました。「転職」という経験がないので面白いと思い調べてみたのです。こんなことが書かれています。「長所を話すときには、最初に結論となる長所を伝え、次にその根拠となる具体的なエピソード、最後に応募先での長所の活かし方の順で伝えましょう。ひと言で言い切るのではなく具体的なエピソードを追加することで、説得力のある自己アピールになります。また、長所は応募先の社風や求める人材像に合ったものを伝えることが大切です。」。面接での自己アピールとは言え、そんなに目新しいことが書かれているわけではないですよね。大事なポイントは社風が求める人間像に自分を合わせてアピールすることのようです。自分の長所なのに、それ以上に求められていることに敏感に応じることの方がスキルが高いとされるのかも知れません。
ただ、長所と短所は見る角度や見る次元によって同じ事柄が違って見えることでもあります。例えば優柔不断とは決断力に乏しいとか気が弱いということでしょうけれども、ということは逆に物事を掘り下げて考えるとか慎重であるということに繋がってもいます。それならば、例えば転職しようとするなら自分の長所や短所をどう活かすことが可能かを考えれば良いのかも知れません。
主の祈りに「誘惑にあわせないでください」と祈る言葉があります。わたしたちを陥れるような「誘惑」が、いつもわたしの外にあるという前提が果たして本当に正しいのか考え込んでしまいます。罪に陥らせる誘惑が自分の外からわたしを攻撃してくるような絵柄を想像してしまうからです。でも自分を誘惑に陥らせるのは案外自分の中から湧いてくることなのではないか、イエスだって「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ7:15)と述べています。しかし一方、自分の内側から出てくるものが自分を汚すのであれば、それこそそのようなものに「会わせないでください」と祈ることも切実な課題かも知れません。
バプテスト教会はキリストによる「新生」ということを大切にしてきました。それは例えば「イエスへの信仰の、真の経験」という言葉で言い表されてきました。その経験のある者は新生体験がある者として、教会の交わりに入るに相応しいとされたのです。しかし人間は人間に過ぎませんので、その能力には自ずと限りがあります。だから教会は新生体験のある教会員たちの交わりによって共に励まされつつ歩む必要があるとした。そういう交わりに入るために、「教会の約束」を互いに交わし合ったわけです。約束ですからそれは守られることに向かうわけですが、人間の限界は常にわたしたちを侵蝕しますから、その現実の上に立って、まさに「誘惑にあわせないでください」と祈りつつ目標である「教会の約束」の実現に向かって歩み続けるという姿勢がバプテスト教会の姿勢なのだと思います。
一方わたしたちは一人の人間として、時代と社会に紐付けられた存在です。今ここで共に集って礼拝を捧げているのは見渡すかぎりこのメンバーです。信仰の先達たちもたくさんいるわけですが、天国にいるであろうその先達と共に礼拝を捧げるというのは一つのポリシーであって、現実には目に見える、ここという場所に集う、同じ時代に生かされているわたしたちというグループでしかありません。時代性と社会性を無視は出来ないわけです。当然それらに引っ張られる、あるいは優先順位がそれらに取って代わられることも十分にあり得るでしょう。良いとか悪いとかの判断とは別物です。それでもやはり先に言いましたように、わたしたちはこの時代にこの場所で礼拝を捧げ合う交わりの中でこそ、新生した教会員としての歩みを確かめられる。だからバプテスト(だけと言い切るわけではありませんがしかしバプテストは)交わりを大事にしてきたのです。
わたしたちはこの世で生きているかぎりまるでイエスの語られた「放蕩息子」のようなものかも知れません。教会を出てひとたびこの世に放たれたなら、わたしたちは誰もが「放蕩息子」なのです。誘惑に晒され、放蕩へと誘われ、あるいは自分の意志で放蕩の限りを尽くすような。
ところが、イエスが語った「放蕩息子」はまさにそういう歩みを続ける中で「我に返」る(ルカ15:17)のです。この箇所が、この箇所こそが、わたしにとってはわたしという者を導く灯です。
わたしたちはわたしたちの歩みを進める中で時々我に返る。それが自発的にか強制的にかは知りません。週に一日かならず日曜日がやって来ることは、少なくとも牧師という仕事をするわたしにとっては強制的に我に返らされることには違いありません。しかし自発的であれ強制的であれ、我に返る時、そこにわたしたちの「新生」への望みがある。そのチャンスが与えられている。クリスチャンの短所でありまた長所である「このわたし」という現実を抱えて、「我に返る」ことこそわたしたちの「新生」の望みなのではないか。わたしにはそう思えるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。父のもとを去り、放蕩の限りを尽くしていた息子はしかし、その暮らしの中でふと我に返りました。その時はじめて父の愛を思い起こしたのです。わたしたちもまた、あなたの目の前から去る放蕩息子のようです。それでもわたしがふと神さまあなたのことを思いだす時、どうぞわたしに「新生」への希望を与えてください。あなたによって赦されて生きていることをこの身に覚えることができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。